2 道北の物流拠点となった赤煉瓦倉庫
明治から昭和の 物流拠点・交通の要衝、旭川。 それを支えたのは、 商人たちと赤い煉瓦の倉庫でした。 米を中心とした穀物倉庫として 大きな役割があった上川倉庫群は 時代とともに役目を終えていきます。
明治30(1897)年。旧国鉄旭川駅開業の前年でした。上川倉庫設立に大きく関わった井内歓二が弟と共に旭川にやってきます。歓二は阿波(現在の徳島県)の豪商の家の生まれ。北海道旭川の地理が有利であることを見極めて事業を計画していました。 翌年、歓二と、旭川村・永山村・神居村の戸長だった本田親美氏らによって上川地方で初の株式会社が誕生します。その会社こそが上川倉庫です。
最初の株式会社登記ですから、当然、役所でも初めてのこと。登記手続方法を知らず、窓口員が困っていたという話も伝えられています。 今でいう市長のような立場の本田氏とタッグを組んで設立したことを考えると、現在の“第三セクター方式”のような会社としての発足だったと想像できます。それだけ歓二は将来を見据える目を持っていたとも言えるでしょう。
国鉄開通により物資と人々が行き交いはじめた明治33(1900)年、まず始めに現在の2号倉庫が旭川産の手造りレンガを使って建設されました。使われたレンガは現在でも十分に通用する頑丈な煉瓦で、明治の職人たちの技術の高さが証明されています。
倉庫群は、北海道における開発都市計画の象徴であるグリッド(碁盤)状の街路を活かし、ブロックを囲むような形で配置されました。旧国鉄の貨物ホームに沿って大小の倉庫が密集し、全国的にあまり見られない独特なものでした。
物流の拠点としての重要性が高まるに比例し、10年余の短い間で旭川駅舎周辺には立て続けに倉庫が増えていきました。最盛期には2,000坪の敷地に煉瓦造りの倉庫が21棟も立ち並んだといいます。主に穀物倉庫として活用され、官民一体となっての運用でした。このときに主要な幹線道路として整備され栄えたのが、現在の宮下通で、旭川でも最も古い発展した道路です。
倉庫郡は昭和40年代まで活気にあふれていましたが、昭和50年代から徐々に数を減らしていきます。 時代とともに貨物の流れが変わっていったことがその背景です。輸送は列車・馬からトラックへと変わり、道央自動車道の開通、旭川空港で2,500メートル滑走路の供用が開始されていました。永山地区に鉄道の貨物ヤードや流通団地が作られ、物流拠点が旭川駅舎周辺から永山地区へと移行していったことも、理由のひとつでした。
明治の発展と共に生きた駅舎周辺の倉庫群は、1棟ずつその役目を終えていきました。
[上川倉庫の歴史 Part 1]明治中期、旭川発展の背景
[上川倉庫の歴史 Part 3]息を吹き返した上川倉庫のいま