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明治中期、旭川発展の背景

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  2. [上川倉庫の歴史 Part 1]明治中期、旭川発展の背景

上川倉庫の歴史は、
明治中期頃から始まります。

旧国鉄の開通
国陸軍第七師団の移駐

当時の旭川を語る上で
このふたつの出来事は
重要な鍵となっています。

旭川は道北の「産業と経済の要の地」に

旭川は北海道開拓において重要な都市と位置づけられていました。明治20年代から上川地方の中心として開拓が進められ、急速なペースで街並みが作られていきます。
旭川村・永山村・神居村の3村が置かれたのが明治23(1890)年、その翌年に屯田兵が入植。彼らは、開発の足場を固め、街並み形成の基礎を築きました。

明治31(1898)年に旧国鉄が滝川から旭川へ伸びて旭川駅が開業。明治34(1901)年には大日本帝国陸軍第七師団が札幌から移駐し、旭川は一躍、軍都となりました。

鉄道によって軍関係の物資輸送や人の往来がさかんになり、旭川は飛躍的に発展します。農業、醸造業、建築業、木材業などの需要が高まり、やがて道北の「産業と経済の要の地」としての使命を担うようになりました。物流においても、日本海・太平洋・オホーツク海の各沿岸に向けて米をはじめたくさんの商品・資材が行き交いました。この旧国鉄開通と師団設置は、旭川の街の歴史上で最も重要な出来事です。
ちなみに、旭川で国内観測史上最低気温である−41.0℃を記録したのがこの頃(明治35年)で、その記録は120年以上経った今も塗りかえられていません。

こうして旭川は、近隣町村との合併も進み昭和45年に人口30万人・昭和58年には人口36万人を超え、北海道では札幌に次ぐ第2の都市となりました。

よもやま話
明治の開拓当時、北海道内陸部の開発がいちばんの目標でしたが、同時に旭川に“北の離宮”を設ける計画がありました。京都・奈良・東京と並び、日本における第三の拠点「北京(ほっきょう)」とする構想でした。離宮の予定地も決まっており、現在の上川神社がその場所であったと言われています。
結局、実現はされませんでしたが、旭川は国家的にも重要な土地であったことが伺いしれます。